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思い出すことなど [5]

10.

 7月17日、梅雨明け。
 爾後の彼は頗る調子がいい。数日前に行政書士事務所とちょっとしたバトルをしてから、さらに調子がいい。怒りは元気にしてくれるそうだ。腸閉塞の危機も脱し、無感覚だった爪先の感覚が戻ってきつつあった。

 新しい介護ベッドや車椅子、電動クレインも導入された。ベッドは以前のものよりフレイムの横幅が狭く、彼が両腕でサイドの手すりをつかみ自力で上体を起こすことができる。空気圧式のマットはプログラマブルで寝返りを促したりと複雑な動きを可能にした。
 新しい車椅子も細身で室内での動きに適しており、シルエットはリカンベントのように美しい。色は黒にも見えるメタリック・ダーク・ブルー。電動クレインは介護人がひとりでも病人を吊してベッドから車椅子へとラクに移動させることができるツールである。
 室内の移動で無理のない導線が描けるよう机の配置なども変更され、どのマシンからでも容易にデータにアクセスできるようNAS(ネットワーク接続ストレージ)サーバをセッティング。仕事場としての室内環境は、積極的に「活動」できる仕様へとヴァージョン・アップされた。
 さらには iPad も入手。これまではラップトップPCをベッドにわたすテーブルや膝の上に置いて使っていたのだが、大きく重たく感じたのだろう。ベッドで使うにはこのアップル製のスレイトPCがちょうどよかろうと彼が所望したのである。

 環境整備ということでモノよりさらに大きかったのは、京子さんを中心とする看護・介護の体制の変化だった。
 これまでの体制においてもっとも反省すべきは、病人自身をリーダーにしてしまったことだ。病人のために尽くす周囲の人間は、病人の意志を尊重し、病人の望むことをしてあげるのが最善のように思っていた。特に「今 敏」という人間はその仕事柄もあって常に指示を出す立場として振る舞ってきたし、闘病においても周囲は彼が主役であると同時にリーダーであることを求めてきた。
 しかし、病状というのは日々変化するものであり、病人の心持ちというのは体調によって大きく左右される。身体が辛いと悲観するし、調子がよいと気分も高揚する。死にたくもなれば生きたくもなる。そうした揺れ動く波は波として受け止め、生きるために確固たる意志で最善を尽くす牽引役が周囲に必要なのである。

「七夕の大患」から数日が経ち、問題点に気づき始めたころ、それをはっきりと言葉にしてわれわれを強く促してくれたのは、平沢進だった。
 ミュージシャンである平沢さんは「今敏闘病支援チーム」を「バンマス(バンド・マスター)不在のバンド」に譬えて語った。
「苦痛が続けば魔境に陥ることもある」
「揺らがず導くバンマスが必要」
「バンマスができるのは京子さんです」
 自分にできることはなんでもしたいけれども、それには京子さんが自分の前にいてくれなければならない、と。
「ただし、方向性は“全快”ですよ」

 今敏はフロント・マン兼リーダーだった。しかし、いま彼はフロント・マンではあるけれども、リーダーではない。
 彼女は覚悟を決めた。
 このまま消えゆきたいという彼の望みに応えようとホスピスを訪れた時、彼女は自分が彼にしてあげたいこと、彼がほんとうに望んでいるはずのものはここにはないと感じた。
 ホスピスの中庭から CALL HIRASAWA!!
「あたし、バンマスになります」

 以前から彼女は「今敏闘病支援チーム」の中心ではあったが、彼との関係においては当然のことパートナーという意識のほうが強かっただろう。パートナーから、フロントマンである彼を導くバンマスへ。
 自分自身で介護技術を習得しながら日々のケアにあたり、家事をするだけでも重労働なのに、医療・看護・介護スタッフのマネジメント、医療・介護機器の手配、わたしや原さんのスケジューリング、さらには新会社の仕事もこなす。日々忙殺されながらもいつも笑顔。
 体力には自信があるからと言っていたけれども、新生児の母親並みの細切れ短時間睡眠で、ほんとうに信じられないほどに働く。周囲は彼女が倒れないか心配していた。

「さすがに京子も車椅子のこととパソコンのことはいっぺんには考えられないからさ、サポートよろしく頼むな」
 もちろん彼は常に京子さんを気遣っていたが、驚いたことに、病に倒れてからも彼女に八つ当たりしたり、我儘を言って困らせたりしたことはなかったという。
 病人、特に身体の自由がきかなくなった病人というのは、家族などいちばん身近で世話をする人間に向かってやるかたない思いをた叩きつけたり、理不尽な要求をしたりするものだ。それは仕方がないことだも言える。いかに彼であっても、ふたりきりの時にはそうした態度に出ることもあろうとわたしは思っていた。しかし、一度たりともなかったのである。

 彼と彼女のことを知る者は、今敏のマンガや映画の女性キャラクタが、どれも京子さんによく似ていることを知っている。

11.

 連日の真夏日、連日の熱帯夜。
 わたしはというと、引っ越して住環境が変わり、連日の寝苦しさも手伝って5時台の起床が習慣づいてしまった。

 酷い暑さではあるが、復活後の彼は仕事に邁進している。
 新作『夢みる機械』について語るトーク・セッションを週2回のペースで開始。脚本やコンテだけでは伝わらない演出プランや表現のディテイルなどをスタッフ相手に解説するというものだ。さらには、プロットのみの未発表作品に肉付けをするトーク。いっときは「せっかく用意してもらったけど、使うこともないなあ。おまえにやるよ」と御役御免となるかに思われた上等なヴォイス・レコーダも役目を果たすことができた。
 ウェブログも5か月ぶりに再開して毎日のように更新。スレイトPCで画像を繰りながら「こういうコンテンツはどうだろうか」などと新会社の商品に関するアイディアを披露したりもする。数日前、平沢さんの置いていったメッセージ付の写真が「応援」しているおかげか。

「七夕の大患」後、わたしは毎日のように今宅を訪れていたが、海の記念日を過ぎてからは容態も落ち着き、週に3回程度の訪問になった。家に着く前に電車内から要り用なものはあるかとメイルで御用聞きするのが習慣になっていて、駅前で彼がつまみやすい小さなサンドウィッチだのゼリー様の栄養補助食品だのを買っていくのだった。
 自分自身が彼の介護をできるわけではないので、京子さんが外出中の安心材料として滞在し、新会社の仕事や自分の仕事を片付けながら彼の話し相手になるくらいである。
 毎日通っていたころは、こういう日々がいつまで続くのだろうとさすがに不安を感じないではなかったが、週に2日〜3日程度ならなんとなるし、リズムもできてきていた。

 そういう心持ちを察してか、病床にあっても彼は気を配る。
「ほんとすまんな。これじゃあ仕事にならないよな。LAN構築とかサイト制作とか、仕事として扱えるようなことはちゃんとギャラは出すようにするからさ」
「なに言ってんだよ、お互いさまじゃないか」
 自分でも驚くほど凡庸な返事をする。
「早く元気になって倍返ししてよ」
「来年の平沢さんのコンサート、こんな大きなベッドは客席に入れられないからさ、車椅子ででも観られるようにならないとな。ま、舞台の袖で寝ながら観てるってのもいいかもしれないけど」
 励ましなのかなんのか笑えないことしか言えない。

 祭りはいつかは終わる。闘病生活は非日常という意味においては祭りに通じる。きっとこうした日々も終わり、懐かしく思い返す日が来るだろう。そう思っていた。しかし、どうしても不幸な結末を想像することはできなかった。
 また正月を迎えて楽しく食事を囲んでいる光景しか浮かばなかった。これまでの正月と違って彼はベッドのなかかもしれないし、原さんも加わっているかもしれない。ただ、彼がいないシーンだけは描けなかった。
 それは逃げだったかもしれないが、われわれだけでもそう信じなければ病魔は退散してくれそうにない。

 7月の終わりには『夢みる機械』のコンテを撮影して動画にした「コンテ撮」があがってきた。
 仕上がりはたいへん素晴らしく、このまま予告篇にしてもよいくらい見事に映画全体の世界観を2分21秒で表現していた。動画には彼のお気に入りの平沢ナンバーが乗せてあり、彼自身が弁士さながらに台詞を読み上げる。
 さまざまなスタッフの手が入った完成品と違って、すべて彼の絵で構成された世界は、純粋に彼そのものだった。
 彼自身も満足できる出来だったらしく、非常に上機嫌。数日前から痰がたまったりとまた体調を崩していたが、この日併せて上がってきた短いラッシュの修正が済んだら平沢さんにも見てもらおうと意気込んでいた。どこでどういう勘が働くのか、知らせたわけでもないのに平沢さんも彼の体調悪化を懸念し来宅を希望していたのだ。
 この日、第2回『夢みる機械』トーク・セッションは3時間にわたって繰り広げられた。

 なんとかこの夏を乗り切れそうな予感。
 しかし、まだまだ涼しくなるまで先は長い。きっと9月になっても「残酷暑」は続くだろう。
 京子さんはヘア・カットでリフレッシュしてきた。
 わたしは7月最後の週末、早めの夏休みをとって海へ行った。

Kon's collection 03 - Butterfly Paprika

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