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自我はどこまで拡張したか

先月、知人のブログに「え、え、ちょっと、ちょっと〜」と思うことが書いてあり「ありゃ〜」とか思ったが、その次の投稿はなかなか興味深かった。

ダイレクトに政治の話を書くと、気分が高揚することがわかった。
国家レベルの世界に自己愛をコネクトできるんだから、暗黒面に陥るブロガーが多いのも頷ける。

さすが「わかってる」なあ。
でも、実は自分の「よくわかんない」部分ってココなんだよなあ。
なんで自我が国家という概念にまで拡大できるんだろ。

国家というものは法人同様、ひとつの人格として捉えることは可能だし、政治家はもちろんのこと、政治を語る人間というのは、たいては国家というものに「感情移入」しているわけである。
現代の法治国家に生きている人間は自然権の一部(殺す権利とか)を国家に預けて、その権利行使を国に金を払って代行してもらっているわけだから、むしろ国家を個人の拡張として捉えるのは、普通のこととも言えるかもしれない。
しかし、感覚としてはどうもわからんのである。

自我は歴史的、空間的、概念的にどこまで拡大可能なのだろうか。
どこまで自己同一性は延長すべきものなのだろうか。

自我の概念的な拡大よりさらによくわからないのは、自己同一性を歴史的・民族的にまで連続して拡大できるひとたちである。
たとえば、戦後の右翼系知識人にしろタカ派政治家にしろ昨今のネットウヨにしろ、彼らの基本にあるのは「オレは悪くない」という心情であり、その「オレ」というのは、 自分のことだけでなく、ご先祖様、我が民族、我が国家まで拡大される。

「慰安婦」にしろ「南京攻略戦」にしろ「ガス室」にしろ、客観的な史実に基づいて検証することは、そりゃあ重要だ。
存在した人口より多くの人間を殺すのは不可能に決まっている。
東京裁判は茶番だと思うし、原爆投下や東京大空襲、ドレスデン大空襲は、敗戦国の行いであったなら、戦争犯罪として裁かれただろう。

しかし、どうも日本の「右」「タカ」「ウヨ」のひとたち、というのは違うんだな。
戦前の日本という国の行為は「なにがなんでも間違ってない」とばかりに白いものまで黒、黒いものまで白と言いたがる。
始めに答えありきで、その自ら願望する結果になるような論証や史実を集めているとしか思えない。

90年代以降活発に言論活動している阿呆マンガ家などはその典型で「ボクは悪くないもん」と泣きじゃくる幼児のようである。
どっかの都知事や府知事同様、幼児の全能感から脱していないのである。

もちろん、自分の主義思想に合致するよう史実を編集したがる傾向は「左」「ハト」「サヨ」「リベラル」というひとたちにもあるわけだが、こちらはもっとイデオロギー的であるし、良くも悪くも自我を歴史的連続として捉えていない傾向がある。
ご先祖様の悪行を「我がこと」として捉えるどころか、アカの他人様のやったことであり、知ったこっちゃないのである。
だから「右」「タカ」「ウヨ」のひとたちがバカのひとつ覚えのように好んで使う「自虐史観」という言葉は、そもそもあり得ない。
「自虐」というのは、戦前の日本を自我の一部として捉えられる「右」「タカ」「ウヨ」のひとたちだからこそ出てきた言葉であり、そもそも歴史的な自己同一性をもっていない「左」「ハト」「サヨ」「リベラル」のひとたちにとっては、自虐でもなんでもないのだ。
つまり「自尊史観」というのはあり得ても「自虐史観」などというのは成り立たない。

それにしても、どうして自我を安定させておくために、自我を歴史的・民族的にまで拡大せずにいられないのであろう。
戦前の日本どころか、神話時代にまで遡って自己を拡大・肯定し、未だに天皇という上位自我を設定しなくては安心できない人たち。
とにかく神国日本は建国以来なんら恥ずべき行いはしていないのであり、そうでなくては、自分自身の存在が否定されたことになる、とでも思っているようだ。
そうしたひちたちの心理構造を想像はできても、理解はできない。
自我の拡張や自己投影というのはよくある話で、会社、家、クルマ、腕時計と、いろんなところに自我を広げたり、映したりするするひとはいる。
自分にもあるとは思う。
でも、自我を広げるのは、せめて身の回りのものだけにしといたほうが身のためだと思う、直感的に。

岩谷宏ふうに言うならば、なぜ「ヒリヒリとした生身の個」として存在できないのか。
平沢進ふうに言うならば、なぜ「宇宙の捨て子」として存在できないのか。
まったくもってわからない。

ただ、国家や民族、歴史といったものを自己の延長線上にあるもの、もしく拡大した自我の一部として捉えられないのは、自分の側にモンダイがあるのではないかと思うこともある。

たとえば、高校野球にしろオリンピックにしろ、よくわからないのが、同郷人や同国人の戦績を「我がことのように」喜んだり悲しんだり怒ったりすることである。
スポーツを「芸」として鑑賞するのはわかるが、なぜに他人の行いを我がことのように応援できるのであろうか。
そりゃあ、友人・知人が出場していたなら、それなりの感情移入もできるかもしれないが、なんで国籍や出身地が同じだからといって、見ず知らずの人間を応援できたりするのか、ほんとさっぱりわからんのである。
なんの努力もせずに寝ころんでビールを飲んでTVで観戦しているような人間が、勝った時だけその喜びを搾取する。
他人様の業績を我がことのように喜ぶというのは、失礼なんじゃないかとすら思うのだが、一般的にはどうもそうではないらしい。
相対的に見るならば、これってやっぱり自分がおかしいのであろうか、とも思う。

北海道というのは「日本」から歴史的に「切れた」土地である。
稲作の北限を越えた道東というのは、風土的にも「日本」から「切れた」で土地である。
さらにアイヌがご先祖様らしいというところで、自分は民族的にも「日本」から「切れた」存在なのかもしれない。

いかにも温帯的な田んぼの広がる「日本的原風景」と言われるものは、後付で学習したものであり、まったく自我形成には関与していない。
小学校の理科の教科書にある記載がまったく当てはまらないことも多かった。
そういうところで生まれ育つとこうなってしまうのか、とも思ったりするが、別に北海道東部に生まれ育った人間がみな高校野球を楽しめないわけではあるまい(笑)。
むしろ、こうした「断歴史感覚」のようなものは、音楽から、ロックから学んでしまったものだろう。

「誰にも殺されないくらい美しくあれ」というメッセージにヤられてしまったまま30年も生きているのだから仕方がない。
美しさが現実的な「力」たりえないとわかっていても。

自分のやったことだけでなく、ご先祖様、我が民族、我が国家まで拡大される。

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