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スターリンはスターレスだった

遠藤ミチロウの訃報を聞いてから、なにか書きたいと思いながらも書けないでいる。
理由のひとつは、自分が好きだったのは遠藤ミチロウのたった一部分でしかない、ということだろう。
結局のところ、多くのミチロウ・リスナー同様、自分にとっての遠藤ミチロウは、ザ・スターリンだったのだ。
これがどうにも引け目に感じてしまうのである。

そして、わたしにとってのザ・スターリンは「絶賛解散中」だった。
わたしにとってのザ・スターリンは1年にも満たない。

初めて観たザ・スターリンは、1984年6月3日・横浜国立大学学祭ステージにて、である。
もちろん目当ては共演のP-MODELだった。

遠藤ミチロウは『ロッキング・オン』に投稿していたので、メジャー・デビュー前から知ってはいたが、キワモノ的な先入観から敬遠していた。
ハードコア・パンクのライヴなんて恐くて行く気がしなかったし、臓物で衣服が汚れるのもいやだし。

それでも、P-MODELとのジョイントであるというので、文字通り恐いもの見たさで行くことにした。
当時最新作だった遠藤ミチロウ・ソロ名義のカセットブック『ベトナム伝説』や『虫』「Go Go スターリン」なんかを弟から借りて予習もしたのだが、いまひとつピンとこなかった。
ライヴを観て印象がまったく変わった……というわけでもない。
屋外ステージの予定が、雨のため急遽屋内の大教室(講堂だったかもしれない)へ変更になり、あまりの人いきれに音を上げて「お母さん、いい加減あなたの顔は忘れてしまいました。」あたりで会場から出てきてしまったくらいだ。
PAの上に登って歌詞を読み上げるミチロウの姿を尻目に。
いま思えばイヌの北田コレチカ(昌宏)が参加していた時期の貴重なライヴだったので、もったいないことをした。

しかし、それがどうしたことだろうか。
なぜだか9月14日の後楽園ホールへ行った。

横浜国大のライヴ後、フラッシュバックのようにミチロウの毒が効いてきたのだろうか。
友人から『トラッシュ』『スターリニズム』といった自主制作時代のレア盤まで借りて聴きまくった。
『虫』はいちばんよく聴いた。
あれはなんだったのだろう。

12月29日〜31日の新宿ロフトも通った。
(12月21日・22日はP-MODELも新宿ロフトでライヴだったので、ほんとロフトに通ってるようだった)

明けて1985年2月21日、調布の大映撮影所でのラスト・ライヴ。
1985年1月15日、ミチロウはザ・スターリンの解散を宣言し、すでにソロ・アルバムのレコーディングに入っていた。
解散宣言後のライヴゆえに「絶賛解散中」と銘打たれたわけだ。

美術も演出も「ザ・スターリンというバンドの葬式」をコンセプトに行われたライヴ。
不穏な空気のなか幕を開けたライヴは2部構成で、前半は新作『FISH INN』を中心にしたスロウなナンバー中心、ジャケットを着たミチロウが菊の花を抱いて歌った。
後半は怒涛のザ・スターリン・ベスト・セレクション。

わたしにとってのザ・スターリンは、圧倒的な「終わっていく感」これに尽きる。
ラスト・ライヴ「絶賛解散中」はもちろんのこと、ラスト・アルバム『FISH INN』や解散ライヴに向かっていくザ・スターリンを取り巻く空気そのものがが「終わっていく感」を表現していた。

終焉へ向かっていく高揚感やカタルシスといえば、ザ・ビートルズの『アビィ・ロード』とかキング・クリムゾンの『レッド』あたりが典型だろう。
「スターレス」という曲はいま聴くとちょっと叙情的過ぎるきらいもあるが、終末感に包まれたアルバム『レッド』のエンディングとしては見事である。
ああいったすべてが「終わり」に向けて収束していくテンションの高まりを、ザ・スターリンは最後の1年で表現しきった。
ザ・スターリンはプログレッシヴ・ロックなのだ。

ザ・スターリン解散後、ミチロウのソロ・プロジェクトも追いかけたのだが、なぜだかザの取れたスターリンの『STREET VALUE』あたりから疎遠になり、1992年のスターリン解散後にソロへ転じてからはぱたりと聴かなくなってしまった。
2001年の一夜限りのザ・スターリン復活ライブを観にいったのが最後だった。以来、18年間、ミチロウのライヴは観ていない。弾き語りのライヴも1度くらい観ておこうかなと思ったこともあったが、観ないまま逝ってしまった。
それがどうにも後ろめたい理由だろう。

ミチロウの音楽的な原点であり、後半生の活動の大部分を占めた弾き語りというのが、わたしにとってはもっとも苦手な音楽スタイルなのである。
ミチロウの死後、ドキュメンタリ映画『お母さん、いい加減あなたの顔は忘れてしまいました。』も観たが、その点は変わらなかった。

いまたまたまパティ・スミスをSpotifyで聴きながらこの原稿を書いているが、そういえばうちにはパティ・スミスが1枚もない。
よくミチロウはパティ・スミスを影響を受けたミュージシャンに挙げていた。根はフォークだが、時に激しいロックン・ロールを歌うというところはミチロウに近かったのかも知れない。

小柄な優等生の遠藤道郎。
バックパッカーで東南アジアを旅した遠藤道郎。
フォーク・ソングの弾き語りをしていた遠藤道郎。
彼がザ・スターリンの遠藤ミチロウへ「変身」した経緯や心情については、多く語られている。
女性週刊誌に記事が載ったころ、彼の実家界隈では道郎くんは気違いになったと噂され、母親から実家に帰ってくるなと言われたそうだ。

ザ・スターリンのコピー・バンドで歌ったことがある。
わたしは人前に出るのが苦手で、ましてや歌ったりするのはほんとうにダメなのだけど、なぜだかザ・スターリンは歌いたかったのである。
ミチロウの豹変に自分を見ていたのかもしれないし、肉体性を拒絶して生きてきた自分に自己解放を求めたのかもしれない。
歌うという行為は肉体性の回復だった。
とにかくミチロウの歌詞は歌っていて気持ちがいいのだ。
歌っていて笑いがこみ上げてくる。

中央線はまっすぐだ!!

これが現代詩というものなのか、と当時は思った。

そういえば、ビデオ・スターリン時代、ミチロウには1度だけ取材をしたことがある。
かなり意気込んで臨んだのだが、実際にはなかなか話が噛み合わず、会話の深まらないインタヴューであった。
エロ・ヴィデオ雑誌の真面目なインタヴュー・コーナーというミチロウにはぴったりのメディアであったのだが、空回りに終わった。
自分としては感心するという意味で「その年齢でよく裸になりますね」と言ったつまりだったのだが、どうもミチロウには悪意に取られたらしく「いや、イギー・ポップだってさー」と福島訛りで反論されたのをよく覚えている。
1988年だからミチロウは37歳とか38歳だったはず。

あれからさらに30年。とっくにミチロウの年齢も追い越してしまった。
ミチロウのように痩せたまま生きていきたい。

合掌

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