3月11日、大震災。
母にメイルすると「大丈夫、お父さんは眠っています」との返事。
入院直後、母が危篤だといって慌てて電話をかけてきたことがある。
新に処方した薬の量が多かったため呼吸困難になったのだが、それは医師としては織り込み済みで、危篤でもなんでもなかったらしい。
様子を見ながら痛み止めの適切な量を計ろうとしていただけだった。
おろおろした母は医師に「奥さんがもっとしっかりしなきゃ」と言われたそうだ。
検査の結果、父は身体の随所に癌の転移が見られた。
足に力が入らないと言っていた右脚の大腿骨をはじめ、痛がっていた鎖骨あたり、頭皮など。
いったい前のS病院はなにをやっていたのか。
大腿骨は癌以前からの膝の痛みと本人も区別がついていなかったようだが、きちんと検査をして、見る目がある医者が診ればわかったはずだ。
ただ、自分も頭皮の癌などは思いもよらず、頭をぶつけたところがいつまでも痛いと言う父を大袈裟だと笑っていた。
済まないことをしたものだ。
入院中、父は小用を足すため、深夜に自分で手すりをつたって歩行し、転倒したことがあった。
癌で大腿骨がもろくなっているので、転倒による骨折は命取りになりかねない。
医師からは退院後も車椅子を使うよう言われる。
父は「もう歩けないのか」とひどく落胆したので、母は「車椅子でも写生はできますよ」と励ましたそうだ。
定年退職後の父は、若いころからの趣味であるオーディオや音楽に加え、水彩画に力を入れていた。
風景画が多く、よく写生に出かけては、メイルで描いた絵を送ってきた。
3月18日から20日、姉と弟が帰省。
食欲回復と痛みのコントロールのための短期入院だったずが、痛み取りの放射線照射となり、退院時期が見えなくってしまった。
弟は、父が退院後に車椅子で生活できるよう、バリア・フリーでのリフォームを業者と打ち合わせた。
建築士である弟のプランを見て、父は満足げでたいそう喜んでいたそうである。
4月8日、父はもう長くないかもと母から架電。
もともと5月の連休には帰省するつもりでいたのだが、看護師から「息子さんたちにはもっと早く、お話しができる状態のうちに来てもらったほうがいいんじゃないですか」と言われ動揺したのだ。
たとえよかれと思ってのことでも、医師に指示されたわけでもないのに独断でこのようなことを言って家族を動揺させる看護師というのはいかがなものか。
放射線治療の副作用が大きく、衰弱が激しかったが、自発呼吸も充分にできているし、臓器に異常もない。
危篤というわけではないが、母はもう覚悟を決めたほうがよいのかと不安にかられた。
姉は父よりも母が心配だと急遽帰省。
母は昨年に骨折したさい手首に入れた金属を抜く手術を父の入院中にやってしまおうと自分も短期入院しており、姉はその世話もしてあげようという心づもりだ。
このころの父は喉の痛みが強まり発声しづらくなっていて、衰弱もかなり進行していた。
少し前には「もうこのまま家には帰れないのかもしれないな」と半ば諦めのような言葉を母に漏らしていたらしい。
自分も4月18日の航空券を押さえて様子を見ることにした。
4月16日夜、父の意識がなくなったと連絡。
母の電話はそれだけで切れてしまっったが、どうも危篤というニュアンスではないし、また空騒ぎの可能性もある。
18日の航空券もとってあるし、どうしようかと思ったが、姉や弟とともに翌朝一番に帰省することにした。
4月17日、釧路は雪がちらついていた。
病室に入ると、父は酸素マスクをつけられ、昏睡状態で荒い呼吸をしている。
医師によると、すでに意識はなく、問いかけに反応しているように見えても反射に近いもので、なにかを認識しているわけではないという状態。
結果的には、件の看護師の「読み」が当たってしまったようだ。
母は上の階に入院していたのですぐに駆けつけられたが、入院中では付き添いの許可が出ないので退院手続きをとった。
口を大きく開けているのがおかしいとはいえ、単に寝ているようにも見える。
危篤とは思えない。
この状態からすぐ死ぬ至ることはまずないが、だんだんと呼吸が荒く浅くなり、心拍数や血中酸素濃度が低下すると、カウントダウンが始まるという。
状況がわからなかったので家族は置いてきたが、明朝の便で呼ぶことにする。
迷ったすえ自宅に置いてきた喪服は宅配便で送ってもらう。
交代で食事や買物に出たり、歓談室のソファで横になったり。
夕刻、母とふたりで病室から見た月が美しかった。
今夜は月齢13.5、明日は満月だ。
夜には母とともに仮眠のため家へ戻る。
30分でも1時間でも寝たほうがいいといくら言っても母は寝ない。
無意味な片付けをしたり家のなかをうろうろする。
死に目に会えなかったら大変なのですぐ病院へ戻ろうという。
この状態が数日続く可能性だってあるのだから、いまからそれでは身が持たないといっても聞き入れない。
母は理屈が通用しない人間なので、しまいには喧嘩になる。
おかげでこちらも寝られないまま病院へ戻る。
4月18日、兄弟の家族が到着。
父はこのままフェイドアウトするかのように息を引き取るのかと思っていたが、不思議と「反応」するようになった。
医師は「反射」と言うかもしれないが、声をかけたり、ゆすったりすると手を挙げる。
癌のある鎖骨あたりにしきりに手をやる。
ついには、目を開け、こちらを見た。
自分には焦点が合っているように見えなかったが、姉はしきりと見てると言う。
手を振ったりして反応を見ているうちに自分も目が合った。
孫たちがやってきたことがわかったのかもしれない。
枕許には、昨年の入院中に5歳児が鎌倉の海でとってきた貝殻が置いてあった。
携帯プレーヤでヘッドフォンから音楽を流す。
家へ休憩に戻った際、父のPCのなかで写真を探す。
遺影に使えそうな写真をピックアップし、トリミング、加工する。
夕刻、だんだん息が細かく荒くなってなきたが、まだ酸素濃度は高い。
先は長そうだ。
歓談室で大きな夕陽が沈んでいく様を撮っていると弟から電話。
危ない状態になったらしい。
慌てて病室へ戻れば、すでに心電図モニタが取り付けられ、担当医と看護師が集まっている。
医師にまだ呼吸をしているのかときくと首を横に振る。
やがてグラフが平板化し、レジスターのように死亡時のデータが出力紙で吐き出された。
医師が脈と瞳孔反射で死亡を確認する。
涙は出なかった。
ようやく楽になったんだという気がした。
搬送の準備をしている間、あちこちにメイルしたり、tweetしたりして、少しずつ現実に引き戻される。
たった2日のことだったのに、1週間も病院に詰めていたような気がした。
葬儀屋の搬送車には母と姉に乗り、弟とタクシーで帰る。
車窓から見える月齢14.5の満月が大きかった。
2011年1月29日(Saturday) 2:15:48
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