いまは国会議員が「頂いたアロマオイルの香りを楽しみながら、英語の勉強をしていた」などと書いただけで非難されるご時世らしい。
まったく支持する議員ではないし、議員の場合は致し方ないかもしれないが、こういう自粛ムードが一般層まで広がると戦時下の日本みたいになんでも非国民扱いされそうだ。
震災後に「敢えて飲み歩いてみた」なんてtweetも目にしたけど「敢えて」とつけざるを得ない雰囲気があるのは否めない。
twitterにそんなムードが漂いはじめたのは、震災後2〜3日経って東京が少し落ち着いた反面、物が不足し、電力消費抑制が叫ばれはじめたころからだろうか。
そのうちtwitter では「不謹慎」「自粛」に関する論議も起きた。
2chなんかは震災前から「隣組」のような機能を果たしていたけど、いまはどうなってることやら。
9.11でのコントロールされた「2ch内世論」みたいなものを見て、終わったメディアだとは思ったが。
偽悪家が正義漢に転じるとたちが悪い。
偽善と偽悪は紙一重ということか。
省電力とかオフピークとか実効性のあることを呼びかけるのは有用だろうし、わたしもたまにしている。
しかし、このご時世に楽しいことをするのはけしからん的なことを新聞まで書き立てたりする。
いまになってこういうことを言い出すひとたちというのは、世界中に常態として存在する飢餓や貧困にあえぐ難民の存在はどう思っているのだろう。
常日ごろから清貧に甘んじ、余剰はすべて寄付しているようなひとが「楽しんじゃいけない」というならまだわかる。
けれども、国内に大震災がおきた途端に自粛だなんだと言い出す人間というのは、おらが村のことしか考えられなかった2世紀前のひとと変わらない。
メディアによって「より遠くまで見える目」「より遠くの音が聞こえる耳」を得た人間にとっては、隣人に起こった事故も、地球の裏側に起こった事故も、原理的には等価のはずである。
ネットワークにおいて「共有」するというのはそういうことだろう。
もちろん、物理的な距離が近い場所で起こったことはリアリティの度合いが違うし、同じ言語を解するとうこともある。
twitterなどネット上での日本語の発言は被災者も読む可能性が高いのだから、配慮すべきという論理もわからないでもない。
かといって、平時において飢餓に苦しむひとびとが読む可能性が低いグルメ記事が免罪されるという理屈にはならないだろう。
美食や飽食が罪だというなら震災があろうがなかろうが、この世から飢えがなくなるまで、いつだって罪なのである。
幼少時に初めてアフリカの飢餓に苦しむ子供の映像を見た時、強い衝撃を受けた。
好きなものを食べていることに罪悪感を覚えた。
誰だってそうだろう。
心のどこかでそうしたことを気にかけながらも折り合いをつけて生きているものだ。
病に伏せっている近親者がいると、いつだって心から楽しめることがないし、むしろ罪悪感を感じたりする。
メディアの向こうのひとたちに対してそういう気持ちがわかないのなら、あまりに想像力が貧困である。
かといって世界中が悲嘆に暮れ、萎縮しながら生きるわけにはいかない。
健康な者、被災しなかった者、飢えていない者に必要なのは「足るを知る」こと。
いまある日常が確率的な僥倖に過ぎないと感謝しつつ享受し、自分ができることをするしかない。
2011年1月29日(Saturday) 2:15:48
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