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思い出すことなど [9]

17.

 昨夜は24時前に寝たとはいえ、4時に目が覚めてしまった。きょうも朝から暑い。
 葬儀は9時からだが、彼の両親が斎場に泊まっているので早めに行って一緒に朝食をとることになっている。
 斎場に着くともう京子さん、原さんが来ていた。京子さんから昨夜2時くらいにメイルが入っていたところをみると、彼女もあまり寝ていないのだろう。
 彼の母は畳敷きの仮眠室ではなく、棺の横に座布団を並べて寝たそうである。
 丸山さんは「気を紛らすため」といって料理を数品作ってきてくれた。ちりめんじゃこと青物の和え物が美味しい。

 昨夜の僧侶が入ってくる。葬儀の経に続き、都市部の慣習に則り初七日の経もあげてもらう。
 読経のあとはいわゆる「お別れの儀」の時間となり、持参した『千年女優オリジナルサウンドトラック』をかける。

 有る程の菊抛げ入れよ棺の中

 いつもこの場面で浮かぶ手向けの句がまた浮かぶ。
 棺を閉める前、彼の頬に掌を当てた。2日前の温もりは消え、ドライアイスですっかり冷たくなっていた。
 さようなら。

「KUN MAE #1」「千代子のテーマ MODE-3」が流れ、出棺に合わせて「ロタティオン」が鳴り響く。がらりと斎場の扉を開けると眩しい蒼穹。いよいよ棺が金細工の霊柩車へと納められる時、曲も最高潮を迎え、仕込んだ本人さえも感極まる。
 京子さんも霊柩車に乗り込み、さあ出発という段。曲が終わらない。まだもう一番あった。酷暑のなか、みな直立不動で平沢進の叫び声をうなだれて聴く。
「やっぱりおまえは詰めが甘いな」今敏の笑い声が聞こえた。

 火葬場は存外に遠かった。道路は渋滞気味で10時半という定刻に間に合うかと気を揉んだ。
 マイクロバスから降りると、大きな棺と遺影はすでに炉の前に据えられていた。最後の読経。
 
 体験上、釜へ入れられ扉が閉まるこの瞬間にもっとも情動の留め金が外れるものなのだが、意外にも京子さんは冷静だった。むしろ虚脱に近かったかもしれない。
「もうコンはここにはいないから」
 彼女はそう言っていた。

 わたしは少し気にかかっていたことがあった。癌に蝕まれた彼の骨は火葬後に姿を留めているだろうか。ほとんど残っていなかったらどうしようか。そういえば葬儀屋に骨壺のサイズを確認していなかった。
「大丈夫です、大柄な方でしたからね、特大のをご用意しています」
 得意そうに答える。ま、いい。
 待合室で菓子やビール、茶などをいただき1時間ほど過ごす。子供のころから不思議に思っていたことだが、冠婚葬祭のなかでも特に葬儀というのは食べ物や飲み物が振る舞われる機会が多い。飲食によって当座の悲しみや苦しみは忘れようという智慧なのだろうか。

 骨となった彼を案ずることはなかった。古来聖職であるところの御坊が壺の蓋が閉まらないのではないかと案ずるほど太く立派な骨が大量に残った。患部の骨は黒くなるというのは俗説なそうで、白く美しい骨だ。俗に喉仏と呼ばれる第二頸椎は、彼とよく似た面長な仏の座像に見えた。

 場を移しての会食。本来の精進落としは四十九日のあとだが、いまは荼毘に付した後の食事もそう呼ぶらしい。そもそも肉食を断っていたわけでもないのだから精進落としでもなんでもないのだが、細かいことはいい。遺影を上座に置き、彼にもビールと料理。
 両親を社用車でホテルへ送ってもらい、われわれはタクシーを拾える通りまで炎天下の吉祥寺を歩いた。京子さんは遺影を、原さんは骨壺を胸に抱え、3人だけのパレードだ。

「ようやく帰ってきたね」
「我が家がいちばん、だね」
 そんなことを言いながら、夕刻からの来客を待つ。
 ウェブログ「さようなら」のアクセス数は1万を超えていた。
 彼のもとには世界中からメッセージが集まってきていた。
 この文章へ向けて彼がウェブログやTwitterで張りめぐらせた「伏線」に気づいた者も多かったようだ。

 夜には再び彼の仕事仲間が集まり「葬式の2次会」もしくは「後夜祭」のようなものが開かれた。
 彼の前には、大好きなシャンパンをグラスに注ぎ、煙草に火を点けて供える。そして平沢進の音楽。

 8月半ば、彼は「好ましい物たち」と題して「少なくとも現在身の回りにどうしてもあって欲しい物」について書いた。その筆頭に挙げたのが平沢進の音楽だった。「これはないと絶対に困る」と。 

 われわれが彼を送ってる間も平沢進は働き続けていた。
 死の翌日から彼の「フィナーレを飾る」曲にとりかかり、通夜のうちにその一部を公開。曲のイメージをこう語っている。

「突然街にサイレンが鳴り響き、ビルの角を曲がるとあの『パプリカ』のパレード・シーンの有象無象、魑魅魍魎たちが今監督の棺を担いで行進して来る。もちろん棺の蓋は開けっ放しだ。あの崇高な死に顔で街を清めるために。さて、35,608人の修羅どもよ、我々もあの列に加わろうではないか」

 平沢進には今敏の死が、10年前に選択していたかもしれない自分自身の「分岐」のひとつに思えて、とても客観的に対象化はできなかったという。今敏の死は、ありえたかもしれないもうひとりの自己の死にほかならなかったのだ。

Kon's collection 06 - Yin Yang Doll

Kon's collection 06 - Yin Yang Doll

18.

 10月10日、雨。
 われわれは遺骨を抱えて彼の故郷にいた。
 彼はもう一度この地を踏みたがっていた。
 明日は四十九日の法要が行われ、納骨される。
 その前にひとつしなければならないことがあった。

 8月のあの暑さがすべて虚構に思える冷たい雨に打たれ、河面を眺める。
 シャーレに入った白い粉を海へ還るようにと撒く。
 彼から託された願いの最後の遂行だった。

 10月11日、快晴。
「善悦院清山敏明居士」は寺に納められた。
 今敏はいまどこにいるのだろうか。
 まだ隣にいるような気もするし、もうすでに生まれかわってきている気もする。

 じゃ、またどこかで。

Kon's collection 07 - Pyrite

Kon's collection 07 - Pyrite
Pic by Susumu Hirasawa
今敏が自身をなぞらえもっとも気に入っていた黄鉄鉱は平沢進に形見分けされた。

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