動作検証用Weblog

思い出すことなど [3]


06.


 7月3日の土曜未明に発生したサーバの不具合によって、今敏の公式サイト「KON’S TONE」がダウン。Web, FTP, メイル、データベースといった全機能がストップしていたが、日曜の朝にはようやく復旧したかに見えた。しかし、Webサーバ上のファイルも、データベース上のデータも、すべて消えている。どうやらバックアップも吹っ飛んでしまったらしく、ホスティング・サーヴィス会社では復旧後も書き戻すことができなかったと見える。ひどい話だ。
 別のサーバにローカルのバックアップからレストアしてサイトを再構築しつつ、頼まれていたサウンド・レコーダやらブルートゥース・マウスやらを注文し、新会社の名刺や挨拶状の文面を考える。日曜から月曜にかけてはそんなこんなで慌ただしく過ごしていたが、彼の身体の異変のほうはずっと慌ただしかったらしい。

 土曜に排尿があって安心したものの日曜にはまったく排泄がなく腹部が膨張し、月曜の朝には救急車で病院へ搬送。尿道カテーテルの施術を受けて帰ってきたという。
 メイルの返事がないのでおかしいとは思っていたのだが、夜になってようやくことの次第を知った。それでも、本人から挨拶状の文案修正のメイルが届き、術後の身体を「おお、サイバー」などと表する文章に安心することができた。

 七夕の水曜。降りそうで降らない蒸し暑い梅雨空が続いていたが、少し涼しい雨が降る。サーバの移設ついでにコンテンツの文字コードも変更し、文字化けとの闘い。夜にはようやく解決。サイトの主にもサーバ復旧の旨を知らせるが返事はなし。そのかわり、22:08に架電。
「いよいよダメみたいだ。おれもうすぐ死ぬから」
 息が荒い。一瞬、自殺でもしようとしているのかと思ったが、どうやら病院にいるようだ。
 どうしたというのだ、すぐに行くから、と返すのが精一杯。
「おまえと友達でよかった。あとのことは頼む。京子のことよろしく。あまり電池がないんだ。ほかにも電話しなくちゃならないから、切るよ。じゃあな」

 携帯電話を見ると1分おきに3度電話があったようだった。別室にいたため気づかなかったが、さぞいらいらしたことだろう。
 京子さんに連絡して状況をきこうとするが、どうもそれどころではないようで、23時半には家に戻ってるからそのころに来て欲しいとだけ言われる。なにがあったというのだ。仔細はわからないが、危篤であることだけは確かだった。
 自分自身もそうとうにうろが来ていたらしく、激しい動悸と手の震えを覚えながら、とにかく向かおうとぼんやり電車の乗り継ぎ時刻を検索する。
 誰かほかに彼の危篤を知らせ、死の前に会わせるべき人物はいないか。新会社のロゴから挨拶状、名刺などデザイン全般もお願いしているデザイナーのIさんが彼の家と同じ沿線上にいることを思いだし、電話する。ほんとうは危篤の彼にひとりで対面するのがいやだったからだと思う。情けない。慌てていたため、2回も自分宛に電話をする。
 平沢さんへ連絡し、状況が分かったら再び連絡することにする。
 原さんも詳しい状況は知らないようで、どう動きましょうかと言う。危篤という認識ではなかったのかもしれない。とにかく向かいましょうと言って電話を切る。
 シャンパンで会社設立を祝ってからたった4日じゃないか。この急変はなんなのだ。確かに癌は病状が安定しているようでも急激に悪化することがあるとは聞いてはいたが。

 最寄り駅でIさんと待ち合わせし、傘をさしながら今宅へと向かう。
 催涙雨。
 Iさんには病気のことを知らせてなかったので、道々話す。
 23時半過ぎに着くともう灯りがともっていた。いつものように京子さんが迎え入れてくれるが、もちろん笑顔はない。
 ベッドに横たわった彼は荒い息で鼻腔カニューレから酸素吸入を受けていたが、意識はある。危篤とはいえ一刻を争うような状況には見えない。
 肺炎を起こし、胸水が溜まり、酸素濃度が低下、意識が混濁して再び救急車で病院へ搬送。今日明日がヤマで、医師には病室から出るなんて論外と言われたが、家で死ぬために無理に無理を重ねて押し通しようやく帰ってきたのだという。京子さんは、不測の事態が起こっても病院に責任を問わないという承諾書を書き、酸素吸入装置や搬送車の手配をしてと彼のために動いた。思うことは「我が家が一番」。
「もうダメだよ」という彼に「病状なんて一進一退するもの。これは最初の峠だし、これからなんども峠を越えなくちゃならないかもしれない。そう簡単には死なないよ」などと通り一遍の励ましをするしかない。
 しかし、こうした時でも「こんなものをぶら下げるようになっちゃったよ」と蓄尿袋(閉鎖式導尿バッグ)を指したりする。こちらはこちらでコンヤガヤマダというギャグを思い出したりする。そういえば、あとになってからは「腹水、盆に還らず」なんて言いあったりもした。

 この夜、平沢さんは「行かない」と心に決めた。今さんは絶対にいま死んだりしないし、みんなが集まって来たりしたら、ああ自分は死ぬんだなって思っちゃうでしょ。だから高橋さんも落ち着いて、と。
 ずっと起きてるからという平沢さんには2時過ぎまで何度も連絡を入れた。わたしの話し方が落ち着いてきたので、彼の容態も落ち着いてきたのだなと思ったそうだ。最初は相当に動揺していたらしい。

 峠を越す間、彼がベッドでぐったりしていたかというと実は違う。疼痛感で身の置きどころがないのか、横になる向きを変えたがり、さらには立ちたがったり、座りたがったり。安静にせずやたらに動きたがる彼に周りは困惑した。すでにひとりでは立てなくなっていたが、両側から支えてあげればなんとか数歩は歩くことが可能だったのだ。京子さん、原さん、Iさん、わたしは彼の希望を叶えるべく立ち回る。
 明け方に4時ころになってようやく彼は眠り、われわれは初電で帰った。後日わかったことだが、この夜のことを彼はほとんど覚えていない。処方が始まったばかりでまだ適量がわからない痲薬系の鎮痛剤を服用しすぎたようだった。
  Iさんは「なんだかデザインやりにくくなっちゃったなあ」といつもの調子で屈託なく言う。いや、屈託はあったのだろうが、早く仕上げなくちゃいけない、いいものを作らなくちゃいけないというプレッシャーだろう。


07.


 翌日。当初は12日に予定していた公証人のもとでの遺言状への捺印が前倒しで行われることになった。自分はきょうあすにも死ぬはずだが、これを終わらせねば死んでも死にきれないという彼の意志によるものである。
 運悪く朝から2本も打ち合わせが入っていたため15時半くらいに今家へ行くと、もう平沢さんが来ていた。昨日は「今さんが元気になるまでは行きませんよ」と言っていたのが、朝になってやはり会うことにしたとのこと。
 彼が死ぬかもしれないという不安に駆られて来たわけではない。周囲までもが死を受け入れた「よくない雰囲気」が形成されているのではないか、そうならばその空気を変えなくてはならぬ、という強い思いで来たのだ。

 昼ころにはもう着いていて、ずっと手足をさすっては、元気づけていたという。昨日に比べれば息が安定してきたが、まだまだ相当にしんどそうである。
 平沢進は以後もなんどか今家を訪れたが、いつも見舞いといった表現は使わず決まって「応援」という表現をしていた。平沢進というひとは、今敏が尊敬してやまない存在であるというだけではなく、彼の音楽同様に、その場の位相をずらしてしまうような不思議な力を持っている。簡単に言えばへんなひとなのである。

 彼が平沢進の音楽を聴き始めたのは2ndソロ・アルバムからで、90年代に入ってのことだ。高校時代や大学時代にはわたしが平沢進の音楽(P-MODEL)を聴いていても興味を示さなかったというのに、バンドからソロになって音楽性が広がったこともあろうが、つくづく出会いというのはタイミングが大切なものだと思う。気がつけば、わたしなんかよりずっと深いところで平沢音楽を理解し、彼に音楽の依頼をする関係になってしまった。
 そういえば、わたしが平沢進に今敏を紹介したことが縁でサウンド・トラックを担当するようになったと思われている節があるけれども、そうではない。確かに初めて2人が会ったのは、わたしの取材に彼が同行した場ではあるが、その縁がのちにつながることはなかった。平沢好きのアニメーション監督がいるらしいと嗅ぎつけた平沢スタッフが映像編集の依頼をしたのがきかっけで、彼のほうから平沢進に映画音楽を依頼することになっていったのである。

 16時過ぎ。公証人一行が到着。相手が病人であることなど頓着なく長々しい説明をし、事務的に遺言状を隅から隅まで読み上げ、流れ作業で捺印。本人はもういいからさっさと判を押させてくれと悲鳴を上げそうだった。公証人はわざわざ家まで来てやったと言わんばかりの居丈高な態度であったが、なぜか原さんの名前だけを常に読み間違えるので、終いに原さんは自分から名乗っていた。
 彼は責を果たしたかのように安堵の表情さえ浮かべていたが、平沢さんはなぜこんな状態でこんなことをするのかと納得がいかない。

 続いて医師と看護師が来宅。搬送先の総合病院の医師ではなく、彼が通院しているペイン・クリニックの緩和ケア専門医である。在宅医療を続けるにあたり、最大の課題は「主治医がいない」ということだったのだが、ケア・マネージャの尽力の甲斐あって、この日、主治医になることを承諾してくれたのだった。
 ひととおりの診察を受けたあと、彼は医師と折り入って話がしたいのでと、京子さんだけ残し人払いをした。
 あとで聞いた話では、主治医となった医師に、自分がどのくらい生きられるのか正直なところを聞かせて欲しい、といったことを問うていたらしい。この状態が数か月で終わるなら自宅療養でも経済的にも看護する周囲の体力的にももつだろうが、長引くのであれば別な方法を考えねばならぬ、と。

 2階へ上がって話が終わるのを待っている間、平沢さんは「この空気はよくないですよ、なんでみんな死ぬ準備ばかりしてるの」と苛立ちを隠せなかった。もっとしなければならないこと、してあげたいことがあるんだという切実な顔だった。
 医師の帰ったあと、彼の手を取った平沢さんは「今さん、頑張りましょう」と言い、弱った声で彼は「頑張ります」と力なくも握り返した。
 彼が危篤状態を乗り越えられたのは、一日付き添って彼の痲痺した脚をマッサージし、つきっきりで「応援」した平沢さんのおかげだと、いまでもわたしは思っている。医者は抗生物質が効いたと言うだろう。しかし、寝たきりの義父がなんども肺炎で入院してシリアスな治療を受けたのを知っている身としては、抗生物質を投与しただけで肺炎が簡単に治るとは思えないのだ。

 この夜、twitterのタイムラインを見ていたわたしは、昼間に会うはずだった編集者が2日前に死んでいたことを知った。この日の夕方、遺体で発見されたのだ。なにも知らない学生時代からいろんなことを教えてくれた大切な存在で、四半世紀のつきあいだった。
 病床の彼に死の匂いは伝わってしまっただろうか。

Persona

Kon's collection 01 - Persona (Korean)

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コメント 2 件

labuffonne より:

かしこさま

140文字ではまとめられず、こちらに落としてしまいますが、どうぞご一読後削除くださいませ。これも管理人認証が済むまでは表示されない仕様だと良いのだけれど、ちょっとでも目立たない所にと、無礼いたします。

事情知らずには、まるで亜熱帯の風に乗って瞬きする間もなく旅に出られただけのようで、いまだ現実感を伴わず、消失感は膨らんだまま、今年は晩秋の余韻もなくて。

一介のファンにあっても、ご心中や背景を到底はかりしることもない外側から、多少の大仰事や俗物的なお別れくらい許してくださってもいいじゃないかと、置いてけぼりをくらったようなツラをしていた慮りのなさでしたが、今ここまで、かしこさんや平沢さんたちの発信を分けていただいているおかげで、少しずつ整理といいましょうか、お別れができている。

ご自身の胸内に飲み下したままにしておかれても当然の範囲をこうして伝えてくださること、常、感謝しています。それだけをお伝えしたかったのです。
そして自分は「外」側だからこそ、還弦の「過剰さ」が救いにも昇華にも感じられ、我々にはできなかったお見送りの分というか、滂沱の受け止め用ポケットを、平沢さんは用意してくださったのかなぁとか、手前勝手に解釈したりしています。

かしこさんの記事があって本当によかった。ありがとうございます。またこれを母語で理解できる環境にある我々は本当に恵まれたことです。自分の僅かな海外の友人たちにも、ここを理解したがっている人間が少なからずいること、さて、どうしたら彼らに齟齬なく伝えられるものかと。

だらだらと駄文打ちました。
寒くなります。どうぞご自愛を。

kasiko より:

コメントいただき、ありがとうございます。
駄文ならぬ蛇足文が少しでも心の整理のお手伝いをできたのであれば幸いです。
「滂沱の受け止め用ポケット」っていい表現ですね。
こんど使わせていただくかもしれません。

なお、ここはユーザ登録してあれば即掲載になってしまうのです。
削除希望でしたらお知らせください。

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