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キミは点呼されたか


インタラクティヴ・ライヴの「三が日」も終わり、はや5日が過ぎた。
ほうぼうのサイトでレポートを見かけるようになり、今さら書くのは後出しジャンケンのようで気が引けるが、まだ「松の内」ということでお許しいただこう。
(って誰に?)
曲目などはライヴ直後にNEWSに掲載したが、ようやく脱力から復活し、感想めいたものを書く気になったのだ。

アルバム・レヴューで「ディストピア3部作」などという言葉を使ったけれど、ライヴを観て、まあ、それもあながちハズレではなく、平沢進なりに「けり」を付けたのだなあ、というのが第1の印象。
Astro-Ho!が「私がこの惑星に来てから9年の月日がたった」と言っているように、起点は2000年なのだ。
アルバム同様、ライヴも「ディストピア3部作」となっているのは間違いない。

ただ、前2作においても、決して自らの内側を問うことを忘れなかったのが、平沢である。
そして、今回はアルバム、ライヴともに、視点は外的事象より、むしろ「内なるディストピア」に向けられている。
ファンクラブの会報インタヴューで平沢は次のような要旨のことを語っている。

  • 『点呼する惑星』は情勢の話ではない
  • 内なるディストピアを放置したまま、外的なディストピアに真剣に立ち向かおうとしている人の滑稽さを描いている
  • (要約は高橋による。ちゃんと読みたい方はGreenNerveにご入会ください)


アルバムでは、聴く者の想像力に任せた部分が大きいが、ライヴではそうした要素がより具体的、直截的に説明されていた。
ここで重要なのは「滑稽さ」というキー・ワードだ。
アルバム、ライヴともに、B級SF映画『不思議惑星キン・ザ・ザ』の「ゆるい」「だるい」世界観やテイストが大きく影響しているわけだが、その核にあるのは「滑稽さ」だろう。
滑稽さ、笑い、というのは、言葉を置き換えると客観性である。

ライヴのもっとも重要なアイテムである「トゥジャリット(詐欺)」は、自らが作り出したものであり、簡単に換言するならば「先入観」ということだろう。
もちろん、平沢自身にはもっと別の考えがあるだろうし、トゥジャリットが壊れた時に何故なかからカンカンに怒った「幼児Lonia」が出てくるのか、とか、3種のペルソナ「AAROM」はなにを意味しているのか、とか、いろいろあるわけだけど、この際、そういうことは深く考えない。
まあ、単純に解釈するならば、怒り・悲しみ・恐怖といった強い感情に支配されている時は、外から自分を見る目を失い、自らの感情に支配されてしまうし、その中心にあるのは幼児性だ、などと言うこともできるが、ぜんぜん違っているかもしれない。
(そっから発展させると、空とか禅とかになりそうだけど、よくわからんしな)
でも、そんなん違っててもいいじゃん、と観客がラクな姿勢で楽しめるところが、今回のライヴのいいところである。

そう、今回のライヴは「説明しすぎない」ところがいいのである。
言葉を換えるなら「詰め込みすぎない」ということだ。

ライヴに日参した某アニメーション監督は、しきりに「バランス」という言葉を使っていたが、確かに今回は、音楽・物語・CG・ 文字情報、ゲストのパフォーマンス、そしてネット参加と、どれもが「いいあんばい」なのであった。
じゃあ、今まではバランスが悪かったのかというと、そういうわけでもなく、あのスタイルなりのバランスはあったと思う。
しかしながら、濃すぎ、言い過ぎ、演出しすぎ、難解すぎ、という側面も確かにあって、すべての要素が過剰なところでバランスを取ろうとしていた、とも言えるだろう。
それでも「Limbo-54」などは、その過剰さの臨界点で実を結んだ最高のパフォーマンスだったと言える。

しかし、そんなことは平沢自身がいちばんよくわかっていて、そもそも前の「Live 白虎野」の時点で、新しいスタイルへ移行したがっていたのである。
できれば物語性を廃して、もっとシンプルな構成にしたいというようなことを言っていただが、結局は「Limbo-54」の延長線上にあるスタイルになってしまった。
要はタイミングである、時機でなかったのだ。

今回のライヴで「風通し」がよくなった最大の要因はやはり、ゲストのSP-2によるパフォーマンス。
彼女達によって肉体性の比重が高まった意味は大きいだろう。
特に道化役 Rang のパフォーマンスは、会場の雰囲気を大きく変えた。
また、物語設定やテキストにも笑いの要素がふんだんに盛り込まれていたために、いわゆるバッド・エンディングでもブルーにならず楽しめた。
「父さん…」なんて古谷徹の声で脳内再生されたが、果たして飛雄馬なのかアムロなのかわからんかったよ。
(あ、飛雄馬なら「父ちゃん」か)

まあ、バッドでも振りだしに戻っただけで、兄弟で暮らせていいね、って感じ。
逆にグッド・エンディングでも「それなりのカタルシス」はあるものの、世界が一変するわけでもなく、そこには日常があるだけ。
また日々を生きるだけだよ、あとは自分でなんとかしてね、と。
そこも『キン・ザ・ザ』っぽいわけだが、非常に見ていて清々しい。
ただ、オチに「私のトゥジャリット」云々の台詞を持ってくるのは、ちょっとずるい気がしたけど(笑)。

さて、今回は楽器回りにも変化があったのは周知の通り。
キーボードがなくなって、とうとう「普通の楽器」はギターだけに。
かわりに登場したのが、レーザー・ハープみたいな新楽器。
名前はまだ無い。

これは、beamz というレーザー光線がトリガーとなって音を出す楽器をバラバラにして組み直し、パーツを附加しているわけだが、チューブラー・ヘルツ、グラヴィトンと続く、伝統の芸風である。
これを買えばすぐに平沢的パフォーマンスができると思ったら、甘い。
実はこのマシン、オリジナル音源を仕込むようにはできておらず、仕様も公開されていないのだ。
本来は発売元が販売する音(曲)をロードするだけになっているので、オリジナルの音を鳴らすには、自分で手を入れなくてはならない。
平沢版は、ハードとソフト、両面からハックした独自仕様なのだ。
にしても、平沢は製品版が出る以前、プロトタイプがWebで発表された段階からコイツに目を付けていたらしいが、いったいどんなレーダーを持っているのか、不思議である。

ミュージカル・テスラ・コイル(Zeusaphone)も今回はパワー・アップ。
前回(PHONON2551)よりもファラデー・ケージを大型化したため、その分、スパークも大きくなった。
もともと設計では150cm以上のスパーク出ることになっていたのだが、ほんとにあんなに大きなスパークが出るとは思わなかった。
疑ってごめんよ、スティーヴ。
しかも、今回は山車に乗って現れる新趣向。
トゥジャリット破壊にもひと役買って電撃をお見舞いした。


アルバム『点呼する惑星』と同様、ライヴ「点呼する惑星」も、この10年を総括すると同時に、新しい方向性を示すものとなった。
2010年代の平沢進がなにを見せてくれるか、非常に楽しみである。

…と、音楽ライターみたいに締めておこう。

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